あけほのむらさき手帖

いと白く清げなる紙ほの光り花鳥うたふ旅にいざなふ

春秋論争

 和歌を巡る春秋論争は、わたしの歌心を昂揚させた。きっかけは、『万葉集』の額田王である。花の盛り艶やかな春と紅葉の彩り鮮やかな秋と、どちらが勝れているか―。彼女が宮廷でこの論争に決着をつけた歌の虜になった。

天皇の、内大臣藤原朝臣に詔して、春山の万花の艶と秋山の千葉の彩とを競はしめたまひし時に、額田王の、歌を以ちて判れる歌

冬ごもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてそしのふ 青きをば 置きてそ歎く そこし恨めし 秋山われは

  冬が過ぎ春が来ると、鳥が鳴き、花が咲くけれど、山に行っても茂みに入っても、手に取ってみることはなできない。一方で秋の山では紅葉を手に取り美しさを愛で、まだ青葉であれば歎き恨めしく思う。そのような楽しみのある秋がわたしは好きである―と、宮廷で春秋を比べて歌ったわけだが、千年以上前に生きた女性のこの感受の仕方にとにかく衝撃を受けた。自然に対する豊かな感性がそのまま表出している。子ども心を存分に理解しているとでも言おうか。

 当時、子育てに追われていたわたしには十分すぎるほど共感できた。春と秋。ともすれば、同じようなものと意識している二つの季との交わり方に関し、身体感覚に溢れる指摘だった。春の花は摘まずに観賞するだけだが、秋の紅葉は自ら手に取り賞翫できる。目で見る花よりも手に取る紅葉のほうが、子どもにはずっと近い。色鮮やかな紅葉を見つけると、子どもはすぐ拾って遊び始める。自然と接する体験の喜びを、額田王は充分に理解しているのだ。額田王はわたしのような母親なのだ、母親の感性を忘れない母性豊かな女性に違いない、小さな子どもの視点を忘れない柔らかな感性を抱いている女性である―そう直感した。千年以上の時空を超えて「母性」を共有できるとは、何という歌の力だろう。

 それにしても、春と秋のいずれかが勝っているかなど、まず、わたしは考えてみたこともなかった。四季のある国で育った人間として、優劣の感懐を抱く以前に、当然のように体に染み入っている春と秋の在り方である。勝負などつけず、そのまま折節の移ろいを堪能すればよいではないか。それが正直な心情だ。(だからこそ、春秋論争という発想が新鮮で、魅了されたわけでもあるのだが。子ども時代、せいぜい問うたのは、どの季節が一番好きかということぐらいか。答えはいつも夏か冬かで決められず、悩んだ朧げな記憶がある。)

 そこで、立ち止まって思索してみる。春と秋の美しさをまとめて捉える感覚は、常時、美が存在するからこそ意識から逸脱して見えなくなる、無意識の状態から得られる感覚だと言えるだろう。裏を返せば、万葉期の古人のように、わたしもすでに自然と一体化しており、春も秋もひとつの美として体感していたのかもしれない。そう考えると、もともと大陸から伝わったとされる春秋論争の倚傍の視点は、にわかに腑に落ちる。

 この論争は、どこの誰が仕掛けたのだろう。世界一美しい論争という形容にも納得がいく。

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